おすすめスポット一之鳥居
飯綱山の麓の高台で、善光寺から戸隠古道を登ってきた参拝者が最初に戸隠山を拝む場所でした。江戸時代の石造の鳥居は、1847年の善光寺地震で倒壊し、明治から昭和にかけては木造の大きな鳥居が建っていました。現在はその石造の一部や礎石が残っています。
天岩戸神話や九頭龍伝説が残る戸隠山は、古くから山岳信仰の対象として崇められる霊山。鎌倉時代には高野山や比叡山に並ぶ一大霊場に数えられ、山岳密教の聖地として多くの修験者が入山しました。
この戸隠山の麓に鎮座する戸隠神社奥社と長野市中心地の国宝・善光寺を結ぶ祈りの道、それが「戸隠古道」です。
修験者が切り開き、参詣者が踏み固めた道には、今もなお名所・旧跡が数多く点在し、信仰を起点に発展した文化である宿坊や戸隠そば、戸隠竹細工の店屋が軒を連ね、全てがつながっています。
先人たちはなぜ神域・戸隠を目指し、何を思い歩いたのか。軌跡をたどり、その祈りに触れると、呼応するように新たな出会いがあるかもしれません。
「戸隠古道」を歩く旅は、近道しがちな現代の私たちにとって、自分自身と向き合う、大切な機会となるはずです。
500円戸隠古道上に30箇所ある石柱にて
拓本をとることができます。
戸隠の土産屋等で販売しています
飯綱山の麓の高台で、善光寺から戸隠古道を登ってきた参拝者が最初に戸隠山を拝む場所でした。江戸時代の石造の鳥居は、1847年の善光寺地震で倒壊し、明治から昭和にかけては木造の大きな鳥居が建っていました。現在はその石造の一部や礎石が残っています。
その昔、戸隠の参拝者はここから奥社のある戸隠山を眺め、祈りを捧げました。現在は、周囲に木々が生い茂り、奥社は見えなくなっています。
窪みに水が溜まり、書道の硯(すずり)に似ていることからこの名がつきました。謡曲「紅葉狩(もみじがり)」の主人公、鬼女紅葉と平維茂との戦いの伝説で活躍した、紅葉の部下の「おまん」が、敗走の途中でこの水鏡に自分の姿を写し、改心したと伝えられています。戸隠の集落から北アルプスの山々まで見渡せる絶好のビューポイントです。
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飯綱山の麓の高台で、善光寺から戸隠古道を登ってきた参拝者が最初に戸隠山を拝む場所でした。江戸時代の石造の鳥居は、1847年の善光寺地震で倒壊し、明治から昭和にかけては木造の大きな鳥居が建っていました。現在はその石造の一部や礎石が残っています。
中社への道と宝光社への道が分かれる地点です。その昔、戸隠への参拝者はこの沢で心身を清めたとも伝わっています。
飯綱山の噴火でできた高台で、戸隠連峰、荒倉山、北アルプス白馬連峰の3つを眺めることができるビューポイント。特に夕暮れ時の展望がおすすめです。
熊野石塔とも呼ばれ、江戸時代より古いものだと考えられています。その由来は定かではありませんが、紀州の熊野信仰に関連したものかもしれません。
宝光社の入り口にある地蔵堂は、弘法大師の石像を中心に閻魔大王など十人の裁判官の像や十六羅漢の像を祀っています。夏の地蔵盆祭りがにぎやかに行われます。
江戸時代末期の創建で、社殿は戸隠五社の中で最も古い。拝殿まわりには龍や鳳凰・麒麟などの見事な彫刻を見ることができる。ご祭神は、開拓学問、技芸裁縫、安産、家内安全、厄除けの神様として信仰され、女性や子供の守護神としても信仰されている。
神道とは神々の道を意味する。戸隠の深い森を抜ける美しい道である。宝光社と中社を結ぶこの道は、歩くのに約30分かかる。
その昔、戸隠の参拝者はここから奥社のある戸隠山を眺め、祈りを捧げました。現在は、周囲に木々が生い茂り、奥社は見えなくなっています。
火之御子社は1098年に創建され、神仏習合時代にあってもこのお社だけは純然たる神社として祀られてきました。舞楽芸能上達、縁結び、火防の神を祀っている。
この桜は、平安時代末期の武士で、世をはかなんで出家した西行法師の伝説からその名が付きました。戸隠参詣の際、この桜の下で子どもたちと問答をしたと伝わっています。
この大きな石塔は、江戸時代の後期に大量の経典を保管するために作られたものです。当時の戸隠の繁栄が偲ばれます。明治初期の神仏分離令でこの塔は幾度も移され、最終的に現在の位置にあります。
江戸時代、戸隠は天台宗の寺院、戸隠山顕光寺として千石の領地を徳川幕府から保証されていました。この石碑は当時別当(寺のトップ)の職であった乗因が屋敷の入り口に建てたもので、戸隠神領が他のいかなる権力にも侵害されることはないと宣言しています。
中社には、樹齢900年近い「三本杉」があり健康長寿の象徴として信仰されています。
この小さな社は、天台宗の僧、宣澄を祀ったものです。宣澄は、対立していた真言宗の一派により暗殺されたと伝えられています。現在も毎年8月16日に彼を偲び、宣澄踊りが行われます。
このお社は1087年に奥社より現在の地に遷祀されました。舞殿の天井には復元された「龍の天井絵」があり神秘的な雰囲気を醸し出している。天照大御神に天岩屋からお出ましいただく為に神楽を考案した「天八意思兼命」を祀り、知恵、創造性、試験合格、学業、商売繁盛の神として信仰されています。
江戸時代まで天台宗の寺院だったため、奥社一帯は女人が入ることを禁じられていました。ここには女性が参拝するためのお堂がありました。また、越後方面へ行く女性は、ここから右側の道を通るよう定められていました。
謡曲「紅葉狩(もみじがり)」の主人公、鬼女紅葉と平維茂との戦いの伝説で活躍した、紅葉の部下の「おまん」が祀られています。おまんは怪力で足も丈夫だったと伝えられていたことから、現在では足神として信仰されています。
中社の近くにある池で、新緑や紅葉の季節、池の水面に映る戸隠連峰と周囲の森との調和が美しいスポットです。
窪みに水が溜まり、書道の硯(すずり)に似ていることからこの名がつきました。謡曲「紅葉狩(もみじがり)」の主人公、鬼女紅葉と平維茂との戦いの伝説で活躍した、紅葉の部下の「おまん」が、敗走の途中でこの水鏡に自分の姿を写し、改心したと伝えられています。戸隠の集落から北アルプスの山々まで見渡せる絶好のビューポイントです。
戸隠山や西岳を背景にした、戸隠で最も人気のある水景です。多くの画家や写真家が、この美しい鏡映しの景観を楽しみに訪れます。
現在は木々が茂り、ペンションや山小屋が立ち並ぶエリアですが、かつては広大な草原で、戸隠山を望む越後道が南北に通るだけでした。
平安時代の若い修行僧、釈長明が、3年の間、口を開かず、横にならないなどの密教の修行をした場所と伝わります。最後は火に焚かれ、自ら仏となりました。
父と母の良好な関係を守るために嘘をついた子供、稚児の逸話が、鎌倉時代の仏教説話集に掲載されています。その親孝行な稚児の霊を祀った板状の塔の中央には、「児」の文字が刻まれています。
寛政7年(1795年)、女人禁制だった奥社へ女性が向かうことがないよう建てられた大きな自然石です。道標の役割をしています。
浄土真宗を開いた親鸞聖人が立ち寄ったと伝わる小さな池です。底から湧き出る水の勢いで砂が噴き上がる様子に感心して聖人が念仏を唱えると、その声の大きさにあわせて湧き出る水の量が変化したと伝えられています。
戸隠牧場は、戸隠山、飯綱山、黒姫山の3つの山に囲まれた標高1,200mのなだらかな高原台地に広がっています。ウシやウマがのんびりと牧草をはんでいますし、ウサギなどの小動物と触れ合えるコーナーも人気です。
奥社参道入口。入口の左にはいかなる者も参拝の為には馬を降り歩かなければならないという意味の「下馬」の石碑がある。
約2キロメートルの参道の中程にある随神門の先に、約300本を越える杉の巨木が並んでおり自然の威厳と力を感じることができる。そのほとんどは江戸時代の初めに植えられたもので、400年以上の歴史を見守ってきた。参道沿いには、修験道の大講堂跡や院坊跡に遺る苔蒸した礎石が往時の隆盛を偲ばせてくれます。
戸隠五社の中で最も長い歴史を持つ。九頭龍大神は生命の源である水を司る神とされ、全国より特別な信仰を集めている。
奥社は戸隠山の麓にあり戸隠神社の御本社である。祭神はアメノタヂカラオノミコトである。アメノタヂカラオノミコトは神力無双の力で天の岩戸を開き、天照大御神に再び外にお出ましいただいた。その時に開け放った岩戸が飛来して現在の「戸隠山」になったと伝えられています。